アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

特集ルブラン(2)「リュパンの告白」

私が前からずっと気になっているのは、日本の探偵小説評論における「本格好みとフェアプレイびいき」だ。逆にいえば、いわゆる「奇妙な味」や本格推理以外の別の要素も加えた探偵小説に対する軽視、さらには推理ミステリー本編に幸運や偶然に頼った御都合主義の記述があると、あからさまに失点のマイナス評価になる傾向である。

そういう意味でいうと決して「本格」ではない、確かに探偵推理な本格な話もあるが、その他の恋愛のロマンスや冒険のアドベンチャーの要素も加味し工夫して書いてるモーリス・ルブランの「アルセーヌ・リュパン」は日本の本格好みな土壌では、残念ながら昔から評価が低い。

戦後の代表的な探偵小説評論家の中島河太郎、あの人はルブランのリュパンに対する評論が全体的に手厳しい。例えば「リュパンの告白」(1911年)に収録の「地獄の罠」に関して。タイトル通り「地獄の罠」にかかったリュパン、しかし最後は「思わぬ偶然の幸運」で見事に窮地を切り抜けるが、それに対する中島河太郎の評価は「幸運の偶然に頼る御都合主義で、薄手の作品になっている」。「薄手の作品になってる」←(笑)。確かにルブランのリュパンには、よくよく考えると主人公のリュパンにとって、あまりにもムシの良すぎる好御都な、いかにもな展開はあるが、しかし何もそこまで御都合主義の幸運の偶然に頼る記述を目の敵(かたき)にして、いちいち失点のマイナスにしなくてもよいのではないか。話としてトータルで面白ければ、そこまで本格のフェアプレイにばかりこだわらなくてもよいのではと私は思う。何とかならないのか、融通が利(き)かない「本格好みでフェアプレイびいき」の日本の探偵小説評論の風潮は。

(以下、短編集「リュパンの告白」の核心トリックに触れた「ネタばれ」です。ルブランの「リュパンの告白」を未読な方は、これから本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

「リュパンの告白」はドイルの「シャーロック・ホームズ」と同様、ホームズの親友ワトソンのようなリュパンの友人がいて、リュパンから聞いた打ち明け話をその友人が筆録し後日談として発表の形式になっている。

まずは「太陽の戯れ」である。事件に繋(つな)がる発端である「太陽の戯れ」の光通信からの事件への導入が素晴らしい。直感と叡智、金庫の暗号解読と、ラストの「金庫の中にブロンドの金髪失踪婦人の死体」というビジュアルのイメージ喚起がインパクト大だ。そして鼻をつく強烈な金庫の中の死体の死臭である。

「結婚の指輪」は、リュパンの過去のロマンスのエピソードだ。夫人のピンチに六年ぶりに現れる頼れる紳士なリュパン、人物のなり代わりと指輪のすり替え。夫人の指輪の裏側に彫られた意中の男性の名前とは。最後は「息子を大事にする夫人の母性には、さすがに勝てないアルセーヌ・リュパン」であった。

「影の合図」はフランス革命の歴史を絡めた隠された家宝の宝石の在処(ありか)を探す冒険である。これは暗号解読の話で、ルブランは相当な愛国者で自国のフランスが大好きだから彼はフランスの歴史に絡めた財宝発掘ものを結構、書いている。「影の合図」では、今まで百年間さんざん探したけど見つからかった財宝をリュパンが片手間仕事の十五分程で軽々と、あっさり見つけてしまう所が読み所といえる。

「地獄の罠」は前述の通りリュパンが「地獄の罠」に落ちるが、最後に偶然の幸運の御都合主義でまんまとピンチを脱する結末を中島河太郎ら「本格派でフェアプレイ好み」な人達から「薄手の作品」と、さんざんに酷評されるのがツラいところか。「地獄の罠」は読んで大変に面白く、私なら文句なく高得点をつけるのだが。変装の意外性とラストのリュパンの台詞「それにしてもなにしろ、美男子ということは」。最後のオチの決めセリフまで、よく考えて書かれている。

「赤い絹の肩かけ」は、「最高に素晴らしい!」としか言いようがない傑作の名作だ。ルブランのリュパン・シリーズの中で確実に上位三本のベスト3に入る、かなり上位に位置する好編といえる。もしかしたら歴代の探偵小説の世界短編の中で個人的には他作家の作品すら軽々と超えて総合ベスト3に入るかも。リュパンがガニマール警部を誘い出す「意外な発端」のオープニング。橋下に落ちた遺留品から犯行過程と犯人を推測するリュパンのホームズばりの推理の過程。本編のリュパンがガニマールを利用して「赤い絹の肩かけ」から、まんまと宝石を手に入れるくだり。つまりはリュパンがガニマールに事件の情報を与えた真意のネタばらしをして、肩掛けの片割れからサファイアを遂に手に入れるところ。そして最後にガニマールから拳銃を突き付けられ退路を絶たれるも、リュパンがハッタリをかまして軽く逃げおおせてしまう痛快なラスト。すべての要素構成に全くの無駄がなく、有機的によく組み立てられている。特にこの短編でのルブランの筆は本当に冴(さ)えまくっている。まさしく「最高に素晴らしい!」の言葉しか私は出ない。未読の方は是非。

「白鳥の首のエディス」は、ネタばれで申し訳ないが、これは美術品コレクターに盗難予告を出す怪盗紳士のアルセーヌ・リュパンが同時に盗難被害者である絵画の持ち主の大佐と実は同一人物で、「被害者と犯人が一人二役の自作自演」という、かなり大仕掛けなトリックである。盗難事件の被害者が、もともと美術品コレクターになりすましたリュパンで、そのリュパンが犯罪予告を出してまんまと自分の絵画をかっさらう。それでリュパンが当初の目的通り、盗難絵画に掛けておいた高額の保険金を手に入れて姿を消し、後にガニマール警部が茶番の自作自演に気づいて悔しがるという結末まで話に破綻がなく実に素晴らしい。結局、こういう「犯人と被害者の一人二役」の大仕掛けなトリックを繰り出せるのは、ルブランがアルセーヌ・リュパンを時に犯罪を引き起こす怪盗紳士であり、また時には事件の謎を解明する探偵の役回りも同時にさせる柔軟な設定にしてるから可能なのであって、こういった大仕掛けの一人二役トリック(話によっては、さらに一人三役のパターンもある)を出せるのはルブランのリュパンならでは強みといえる。

例えば、ドイルの「シャーロック・ホームズ」やクィーンの「エラリー・クィーン」ではホームズもクィーンも常に必ず探偵であり刑事であり、彼らが「探偵や刑事でありながら、同時に犯人でもあった」の一人二役など、絶対にあり得ないから。ドイルのシャーロック・ホームズで「実は探偵のホームズが犯人で、事件の捜査は全て自作自演だった」など何が何でも絶対にあり得まない(笑)。リュパン・シリーズにて多用される「犯人がすなわち探偵」の「一人二役」の大技は、ホームズでは死んでも出来ない。

「麦藁の軸」は奇抜な隠れ場所というか、巧妙な上手な隠れ方のパターンの話である。未解決の強盗事件にたまたま出くわしたように見えて、実はあらかじめ全て計画の上で強盗事件の犯人探しに乗り出し、解決に導くリュパンの手腕が素晴らしい。

「リュパンの結婚」はリュパンの変装で人物なり替わりな話だが、途中で入れ替わりを見破られてしまう。しかし「地獄の罠」同様、「美男子」なリュパンに女性からの幸運な助けの手が差し伸べられるという、これまた好都合でムシの良い御都合主義な話になっている。ゆえに「本格好みでフェアプレイびいき」な評論家の中島河太郎は、やはり本短編への評価が厳しい。例えば以下は中島による「リュパンの結婚」に対する解説の一部である。

「リュパンの結婚は、勝手に公爵令嬢との結婚を通告するという傍若無人の行動に出るが、成功を過信している彼に救いの手が伸べられる点に甘さがある。リュパン譚は普通のミステリーのように、推理を中心として構成されていないし、神出鬼没的な行動や直感的推論に重心がかかっているから、本格特有の充実感に乏しいのはやむを得ない。作者自身リュパンの御都合主義をよくわきまえているから、他の要素を大いに借りて来てカヴァーしている」

中島河太郎は相変わらずルブランのリュパンに厳しいな(笑)。「甘さがある」とか「本格特有の充実感に乏しい」とか。ここから中島並びに日本の探偵小説ミステリーにおける「本格好みのフェアプレイびいき」の風潮、そのためルブランのアルセーヌ・リュパンに対し、昔から日本ではアンフェアの御都合主義として評価が低い「日本でのリュパンの不遇」を読み取ることは何ら困難ではない。むしろ容易だ。