アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(5)「黒猫亭事件」

横溝正史「黒猫亭事件」(1947年)は、終戦後の「獄門島」(1948年)や「本陣殺人事件」(1946年)に続く作品であり、戦争が終わり「さあ、これからだ。思いっきり思う存分に本格を書いてやろう」と横溝が新しい探偵小説の創作に情熱を燃やし書く作品が傑作連発のハズレなしで、図(はか)らずも横溝の筆に神が降りてきた神がかっていた、まさに「探偵小説家としての横溝正史、奇跡の時代」に当たるので、この時期に執筆された「黒猫亭事件」も従来型探偵小説の伝統の殻を破ろうとする横溝による新趣向の意欲作となっている。

「黒猫亭事件」の読み所として、戦後に創作し「本陣殺人事件」にて初登場させた金田一耕助の活躍を時系列で厳密に構成するシリーズ化の金田一探偵の物語世界構築を案外、横溝が丁寧に力を入れてやっており、「黒猫亭事件」は「本陣殺人事件」を執筆した疎開地の岡山に在住の語り手、つまりは横溝正史本人の元を金田一耕助が訪問する、「もうすこし、ぼくという人間を、好男子に書いて貰いたかったですな」などと金田一が軽口叩きながらの(笑)、横溝と金田一の架空の直接会見を小説冒頭に置く「本陣」の後日談になっている。

加えて、私立探偵の金田一耕助シリーズを書き継ぐにつれ、この「黒猫亭事件」あたりで作者の横溝自身が金田一に書き慣れ、金田一耕助のキャラクターに愛着が増して金田一シリーズ継続の深まり画期となる点が注目される。すなわち横溝正史、後に「黒猫亭事件」を評していわく、

「この小説を書き上げて私が一番嬉しく感じたことは、作中人物であるところの金田一耕助に、作者がようやく親愛の情を持ちはじめることが出来たということである。去年書いた『本陣殺人事件』や、いま書いている『獄門島』では、まだそこまでいっていない。この第三作にいたって、私ははじめてはっきりと、金田一耕助に好意と友情を持つことが出来るようになった。そういう意味で、この小説は今後続々とうまれるであろう金田一耕助シリーズの中でも、私のもっとも愛する作品となってのこるだろうと思っている」

(以下、「黒猫亭事件」のトリックを明かした「ネタばれ」です。「悪魔の手毬唄」のトリックにも軽く触れています。横溝の「黒猫亭事件」と「悪魔の手毬唄」を未読な方は、これから新たに本作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

本作にて、横溝は最初に探偵小説の主要トリックについて概説的に述べている。横溝によれば探偵小説の王座を占める、作者が読者に挑戦して読み手を驚かせる主なトリックのタイプは三つあるという。「密室の殺人」型と「顔のない屍体」型と「一人二役」型である。そして、この三大トリックのうち前者の二つのタイプは読者が読んでいて途中で気づくものである。「なるほど、これは密室の殺人だな」など。しかしながら最後の「一人二役」型だけはそうでない。「一人二役」の仕掛けは最後まで隠し伏せておくべきトリックであって、「この小説はどうやら一人二役型らしい」と途中で読者に感づかれた時点で探偵小説での勝負は作者の負けである、と。

およそ以上のような探偵推理のトリック類型分析を作中冒頭にて一般的に述べておいて、横溝は「黒猫亭事件」の発生から事件の経過、解決の顛末(てんまつ)までを詳しく記述する。それで、この「黒猫亭事件」の柱となるトリックは「顔のない屍体」型で、酒場「黒猫亭」の敷地内から身元判別不能な「顔のない屍体」が発見され、先に述べた物語冒頭での横溝による周到な探偵小説談義にて、「なるほど、この『黒猫亭』は『顔のない屍体』型の話だな」と読み手は分かるが、そこで横溝は「顔のない屍体」型にさらに工夫を凝(こ)らし複雑にする。つまりは、この「顔のない屍体」型に「一人二役」型の要素をプラスして複合にする。これこそが横溝の「黒猫亭事件」の斬新さであり、この作品の最大の目玉の読ませ所なわけだ。

だから「黒猫亭」を読む人は、読み進めていって分かる目先の「顔のない屍体」の表層トリックにのみ腐心し心奪われて、身元判別不能な屍体の正体は通常被害者と目される人物そのままなのか、それとも従来型の探偵小説トリックの定石(じょうせき)通り、事件の被害者と目される屍体は実は事件の加害者として手配されている人物で、逆に殺害されたと思われている被害者が加害者であり、その「顔のない屍体」の被害者を装った本当の加害者は合法的に社会的抹殺の蒸発を遂げ、すでに上手いこと逃亡してしまっているのか、「顔のない屍体」における被害者と加害者の入れ替わりはあるのかないのか、そのことばかりが気になって小説を読み進めてしまう。そこで作者からの不意打ちで最後の最後に、初めからこっそり仕込んでおいた「一人二役」のトリックを暴露し読み手を驚かせる趣向である。「一人二役」は、読んでいても読者は分からず予測できず、作者が読み手に感づかれないよう細心の注意を払って記述を進め、最後に「一人二役」を暴露して「まさか!この人が一人二役で同一人物だったとは」といった意外性の驚きを読者から引き出すことが醍醐味の味わいトリックなわけだ。「まんまと作者にしてやられた」意外性の爽快(そうかい)さが魅力な「一人二役」トリックである。

横溝の「黒猫亭」の場合、「顔のない屍体」トリックが前面に押し出され、ゆえに初読な読者は(おそらくは)「一人二役」トリックに対し完全に無警戒で想定していないため、最後の「一人二役」の暴露による「作者の横溝に見事してやられた」の読後感の爽快さが余計に鮮(あざ)やかに残る。やはり横溝正史は探偵小説を書くのが上手い。読み手に与える意外性の驚きの効果を事前によく研究し、計算して執筆している。

「黒猫亭事件」での「顔のない屍体」に絡(から)む「一人二役」トリック複合の、およその内容は以下の通りである。まず「顔のない屍体」が発見されて、着衣や持ち物の状況証拠から「被害者はAで加害者はB」と予測され、警察の捜査が開始される。もちろん当然ながら、いわゆる「顔のない」身元判別不能な屍体であるため、被害者と加害者の入れ替わりで、逆に「被害者はBで加害者はAかもしれない」予断も持って一同関係者は捜査に当たるわけだが。ところが「黒猫亭事件」の場合、加害者と目されるBの足取りが全く掴(つか)めない。仮に被害者と加害者の入れ替わりで加害者がAであったとして、そのAの足取りも全然、掴めない。警察による捜査は難航する。そこで私立探偵の金田一耕助が現れて、「黒猫亭事件」のカラクリを見事に打ち破る。すなわち、被害者と目されるA(もしくはB)と加害者と目されるB(もしくはA)が実は「A=B」の「一人二役」で最初から同一人物だった。そして身元判別不能な「顔のない屍体」は全く関係のないCの屍体であった、と。そういった事件の顛末が「顔のない屍体」の従来型の単なる「被害者と加害者の入れ替わり」発想を越えた、「実は被害者と加害者の入れ替わりはなく、被害者と加害者は一人二役の同一人物だった」とする新しいパターン創出ということだ。

より具体的には一人二役のAかつBに当たるのが酒場「黒猫亭」のマダムで、このマダムには殺人の前科があり、また今回、金田一と同窓で友人の風間なる男にマダムが心底から惚(ほ)れに惚れて「黒猫亭」マスターの現夫と別れたいために、そのマスターの現夫を殺害する計画で、事件決行までAとBの二人の人物を一人二役で事前に周囲の者に過剰に見せ、あたかもAとBの二人の別人物が実在しているかのように演出し装った。それから夫殺しを実行し、さらには「顔のない屍体」のCも別件で別の女性を殺害して抜かりなく屍体調達をして、あたかもマダム自身が「顔のない屍体」として殺害されたように偽装し合法的に社会的蒸発を果たし逃亡したかった。発見された「顔のない屍体」は確かに遺体の衣服や持ち物から「黒猫亭」のマダムのように思われるのだが、その加害者もマダムによる事前の一人二役の架空の人物で実在しておらず、しかも「顔のない屍体」はマダムが調達した全くの別人遺体であったのだ。

そのため結局のところ、「顔のない屍体」殺人にて加害者と被害者に目されていた人物は一人二役で「黒猫亭」のマダムは何ら殺害されず生きているのだから、ここに至って作品タイトルを「黒猫亭殺人事件」とはせず、「殺人」の文字をタイトル中に入れることなく、あえて「黒猫亭事件」とした作者・横溝正史の意図に読者は結末まで読んで納得するだろう。

金田一の友人の風間に惚れた「黒猫亭」マダムの「惚れた女の弱み」が、「顔のない屍体」プラス「一人二役」というミックス複合の周到綿密な犯罪計画実行の動機としてあるわけで、「男に惚れた女の弱み」が犯罪動機ゆえの「黒猫亭事件」とは、いささか純情でメロドラマな切ない話である。

以上のように犯罪動機のメロドラマ的要素や、はたまたタイトルの「黒猫亭事件」の黒猫を作中にて小道具として効果的に活用する「グロテスクな黒猫の使い方」も非常によく出来ている。そして探偵小説の本筋である目玉となるトリックも、「顔のない屍体」プラス「一人二役」の複合で意外性があり、ある程度の驚きは読者から引き出せる。ただ、この「顔のない屍体」に絡む「一人二役」のトリックが、肝心の「顔のない屍体」の正体に直接に結びついていないため、つまりは「顔のない屍体」と目された被害者と加害者のAとBの入れ替わりの方に「A=B」の「一人二役」トリックを使って、だから加害者兼被害者と疑われた人物は生きており、殺された肝心の「顔のない屍体」のCは全く関係のない外部から屍体調達で持ってきて単に事件に添えているだけなので、「顔のない屍体」トリックそのものの原理的弱さの印象は「黒猫亭事件」の場合、否(いな)めない。

そして横溝正史は、後にもう一度「顔のない屍体」プラス「一人二役」の複合トリックを金田一耕助の長編「悪魔の手毬唄」(1959年)にてやる。こちらの方は「黒猫亭事件」とトリック複合の原理は同じで、しかし「一人二役」の使い所の力点がズレて直接に「顔のない屍体」の正体に絡む意外性の驚き満載な「一人二役」となっており、「黒猫亭事件」よりも「悪魔の手毬唄」における「顔のない屍体」プラス「一人二役」の複合トリックの方が、私は好きである。