アメジローのつれづれ(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。

再読 横溝正史(31)「仮面舞踏会」

横溝正史「仮面舞踏会」(1974年)は何度か読んでいる。既読で犯人は知っているが、それでも読み返して面白い。本作の肝(きも)は、「犯人の意外性」と「犯人露見の決定的証拠」である。前者の「意外性」はヴァン・ダインの小説のようでもあり、後者の「決定的証拠」はディクスン・カーの小説のようでもある。ゆえに本作は本格の読みごたえがある。

タイトル「仮面舞踏会」とは、「人世は仮面舞踏会みたいなもんだ。男も女もみんな仮面をかぶって生きている」という本文記述から来ている。事件の解決には探偵の金田一耕助が登場して活躍する。本作は600ページに近い長編であるが、「犯人の意外性」と「犯人露見の決定的証拠」とを、特に後者の「犯人露見の決定的証拠」は誰もが否定できず「××が犯人」と納得せざるをえない「科学的証拠」であり、ゆえに「決定的」である。おそらく横溝は、それら二つを最初から決めて書いているに違いない。話の前半から、軽井沢にて「××がゴルフというものを見たい…ゴルフ・コースをまわってみたいなどとダダをこねて」云々の伏線を周到に各所に張っており、あらかじめの犯人示唆の筆致は随所に強く感じられる。その他、「蛾(が)の鱗粉(りんぷん)」「マッチのパズルのメッセージ」「『A+Q≠B+P』(AプラスQはBプラスPに等しからず)の方程式メモ」の小道具が印象深く、横溝「仮面舞踏会」は小物使いが特に優れているの感想だ。ラストでの犯人と金田一耕助の対決も、よくできている。

以前に角川映画にて映像化されていたが、山村正夫「湯殿山麓呪い村」(1980年)という当時すでにベテランの書き手であった山村正夫が明らかに横溝正史を意識して、「今の時代、探偵推理をこのように書けば絶対に売れる」と暗に説き示すようなわざと売れ筋のヒットを狙って書いた、なかば公然と「横溝の探偵小説パロディ」な良作が昭和の「横溝ブーム」の最中にあった。事実、山村の「湯殿山麓呪い村」は、それまで比較的マイナーな出版社刊が多かった氏の一連の仕事の中で例外的に大手の角川書店から出され角川映画にまでなって、山村正夫の代表作になったのであった。横溝の「仮面舞踏会」を読み返すたび、なぜか私は山村「湯殿山麓呪い村」の犯人をいつも思い出してしまう(笑)。

本作は過去に探偵雑誌「宝石」にて連載、しかし一度中断・休止して、後に横溝が角川書店「野生時代」に連載再開し作品を完成させた。「仮面舞踏会」が最初の「宝石」連載時に横溝担当で原稿を横溝邸に取りに行っていた当時の「宝石」編集長・大坪直行による、その時の横溝とのやり取りを記した文章が大変に面白いので少し長いが最後に引用しておこう。朝から深夜まで一日中、心身をすり減らしてアイデアを捻(ひね)り出し創作に奮闘する探偵小説家・横溝正史の日常の姿が、そこにはあった。

「この作品『仮面舞踏会』にしても、舞台は軽井沢で、いかにも社会派の作家がとりあげたい場所だが、元華族を中心とする主従観念の強い人物設定や冒頭の台風での豪邸の描写、二人の若い心中行など、さすが横溝正史ならではの盛り上げを示している。
それはともかく、第一回、第二回、第三回と原稿をもらう度に私は、内心『してやったり』とほくそ笑んだものであった。ところが、この原稿には全く苦労した。なにしろ、四十枚近くの原稿をもらうのに一週間は経(かか)るのである。
先ず、早朝に門を叩くのだが、もちろん出来ていない。夫人が出て来られて『十時に取りに来てください、と言っておりますので…』これが第一ラウンド。
第二ラウンドは午前十時の約束の時間である。ややどす黒い顔色で決して健康体とはいえない横溝正史が和服姿で玄関先に現われる。『やあ、すまん。まだなんだよ…』『で、何枚ぐらい出来ているんですか』『ペラで二十枚は出来ている』『先生、ちょっと見せていただけませんか。原稿用紙を見ませんと不安で…』『悪魔の手毬唄』の時もかなり苦労しただけに申訳けないとは思ったが、必ず見せてもらうことにしていた。『じゃあ、上がりたまえ』…十畳ほどの和室の真ん中あたりに座り机がある。その机の周囲は原稿用紙や資料本で散らばり、足の踏み場もない。そこから横溝正史は書きかけの原稿用紙を、とりあげ見せてくれるのである。しかし、見せてはくれるが、もらえないのである。『夕方の六時に来てください。そうすれば半分(二十五枚)は渡せると思います…』
さて、ここから第三回ラウンドに入る。夕方の六時ジャストに私は玄関のドアを開ける。午前十時にペラで二十枚出来ていたわけだから、間違いなくその倍近くは出来ているにちがいない。ところが、この第三ラウンドで原稿をもらえることはまずなかった。『渡せないこともないが、午前一時まで待って欲しい。一時には必ず…』とくる。そう言われれば一言もない。
私は午前一時ジャストにまた玄関のベルを鳴らす。第四ラウンドである。すると、夫人が出て来て申訳けなさそうに『どうぞ、お上がりください』と言う。どうも様子が違う。まあ、進行状況があまりかんばしくないんだな、と察しがつくのだが、事実は、そんな生やさしいものではない。書斎に行ってみると、午前十時の時の原稿用紙とその後書き加えた用紙とが無残にも屑籠(くずかご)の中に放り込んであり、新しく書き出した原稿が申訳けなさそうに机の上に数枚あるだけであった。
まあ、こういった状態が一週間近く続き、その回の原稿がもらえるわけだが、私は原稿をもらうたびに、髪はボサボサの和服を着た横溝正史が、ある時は熊のように廊下を行ったり来たりしながら考え歩む姿を思い浮かべていた。つまり、それほどまでこの作品に対して、横溝正史は情熱を傾け全力投球をしていたわけである」